





先輩でありながら彌太郎から感化され
右腕となった石川七財

台東区の谷中霊園にある石川七財のお墓を訪れました。1871年に亡くなってから約150年経ちますが、彼の功績は今も語り継がれています。
三菱グループの創業者である岩崎彌太郎は、土佐藩の事業から日本最大の海運会社、三菱へと大きく発展させていきますが、その陰には彌太郎を支えた強力なパートナー達が存在しました。その代表的な人物が、石川七財(いしかわしちざい)と川田小一郎です。彌太郎と土佐藩で友人・知人だった2人は草創期の三菱を支えていきます。
石川七財は足軽出身でしたが、長じて、土佐藩の中心的人物であった参政の吉田東洋に仕えるようになります。ご存知のように吉田東洋は彌太郎も通っていた私塾を運営していましたが、石川は彌太郎よりも6歳年上の先輩でした。奇しくも2人は同じ人物から影響を受けることになります。
明治維新後、彌太郎は藩営事業をもとに海運や貿易で活躍する一方、それを快く思わない勢力がありました。その1人が石川で、ひそかに彌太郎の行状を調べることになります。
大阪・西長堀の船着場に降り立った石川は、彌太郎の周辺を探るようになります。そんな石川に対し、彌太郎は金銭出納帳など手のうちのすべてを石川に見せることにします。彌太郎は、世界のなかで明治日本の置かれた立場を語り、海運・貿易の重要性を石川に説きます。次第に石川は先輩ながら彌太郎の話に感化を受けるようになり、ミイラ取りがミイラになります。石川はそのまま大阪に留まり、やがて彌太郎の右腕となっていくのです。